メモ帳
最新のトラックバック
以前の記事
2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 フォロー中のブログ
カテゴリ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2007年 12月 27日
西原地区(桜ヶ池周辺にあった集落)は、東村、(高台・現、湖畔荘周辺)と西村(谷間・池の底)に分かれていた。明治30年代最盛時には24戸も存在した。しかし、陸軍の演習場となり、砲撃が始まる31年頃から住居の移転が始まった。北海道や京都などへ転出。大正9年には、強制移転によって、東村を含め一戸もなくなった。当時の軍による移転料を明記した資料(大正9年11月26日記・中川重太郎氏保存)も残っている。
桜ヶ池左岸道路沿いにある「又八の清水」は、この付近(背戸山5-6)に非難していた山崎又八の名前から由来したものと記述にある。又、場所島853にあった村社神明社は、溜池工事着工前の昭和16年3月に、野口の村社荷神社に合祀され、西原村共同墓地(向山28-2、28-3)であった中ノ島に昭和34年3月に改良区によって桜ヶ池神社が造立されたと記述にある。 明治30年代初めから、砲撃に晒されて避難そして転出、大正9年の強制移転。昭和期になって築溜池による登記簿上からも消滅等数奇な運命を辿った西原地区。西原という村名、場所島の瀬戸山、向山の名も人々の記憶から消えて「桜ヶ池」となっている。一世紀の歳月の流れを感ぜずにはおれない。 (桜ヶ池竣工50周年誌)より
by s-jiu
| 2007-12-27 21:35
|
ファン申請 |
||